この施術の世界に入って。
ずっと軸のない自分、自分がなんなのかわからない自分と、向き合うことになってきた特にこの1年ほど。
吐きそうになるほどいろんなことを見つめてきたように思います。
そんな中で、昨夏見つけた、私の中の小さな小さな「私」。
いったい、いつから置き忘れてきてたんだろうと。
どうして、こんなにも大切な自分自身だったのに、奥深くに沈めてしまっていたんだろうと。
何日も嗚咽しながら泣き。食べることも忘れ。
そんな中で少しずつ、かすかに、つかめてきたような自分。
けれど、何かあるとやっぱりぐらぐらで。
すぐに隠れてしまおうとする「私」の声を、どうにか拾い上げるのに、まだまだ練習が必要な自分がいます。
そんな日々の中で、年が明けてから数回ほど、本当に、涙が出るほどの怒りが湧いてくる出来事がありました。
現実世界で起きる事柄は、いつだって自分への示唆。
何かを自分に教えてくれるために起こっていると考える…癖があるので(笑)
(ほんとにそうかどうかなんて、わかりません。私はこの考えが好きなだけ。)
どうして、どうしてそんなことが起きたんだろうと、振り返ることがありました。
怒ることは、しんどいです。
すごく、疲弊する自分がいる。
その感覚が嫌で、怒るくらいなら我慢してしまった方がいいとか、相手に合せてしまった方がいいとか
そうやって飲み込むのも、私の癖なのですけれど。
その数回の出来事の中で気付かされたことは、
【私の中の大切なものが 何であるのか】
ということでした。
一度目は、本当にマインドレイプってこういうことを言うんじゃないかと思うほどの出来事。
他の人から見たら、ささいな出来事だったのかもしれません。
でも私には許せなかった。
今も、許せない。
けれど、その踏みにじられたものは、私にとっては宝物のように価値あるものだったということが、わかりました。
大切なものだからこそ、そんな風に扱われたことが、苦しくて、ものすごく傷ついて、だから、怒りがとまらなかった。
そう、気付かせてもらえたことは、よかったと心底感じています。
それから、他にもいくつかありますが、もう一つあげるとするならば、
それは
【私にとっては、『想い』というのが ものすごく大事である】
ということ。
自分の想いもですが、自分の仲間や近しい人の想いが、
踏みにじられること、軽んじられることは、許せない。
私はそういうところに、反応するのだなぁと、痛感する出来事がありました。
大人になるって、だんだん怒りがコントロールできるようになったり、
達観出来たり、いつもフラットでいられたり、そういうものだと思っていたし、
そういう大人になれば楽なんじゃないかと思ってきた私ですが。
最近は、もしこんな風に世の中の人がみんななっちゃったら、
なんて画一的でつまんない世界になるんだろうなんて思うようになりました。
結局、怒りというのは二次感情で、その怒りが生まれた理由を突き詰めていくと、
ただ、悲しかったとか、想いを汲み取ってもらえず悲しかったとか、傷ついたとか、
そういう自分が見えてきます。
(って教わって、どМのように内観してきましたよ昨年下半期w)
きっとそれは時には考えすぎなだけで。
シンプルに行くならば、
「私はすごくむかついた!」
で終わりなんだと思います(笑)
まあ、相手のせいにしちゃうことを避けるためには内観しないと、気付きがないし、
そうしないと、善悪とか、正義で叩き潰そうとしてしまうので私の場合。
(基本的に平和主義ですが、あまりにも許せないと、全部論破しようとする癖があります・・・)
そういう、後付の正当性を探し求めるんじゃなくて。
ただただ、むかついた。腹立たしかった。悲しかったということ。
それだけ、そのことは私にとっては大切なことだった、というだけです。
善悪がなくなって、正しいも間違いもない世界だってわかってたって、それは私は譲れない。
そして、これはただの私のエゴで。
でも、そのエゴも含め、どんな感情も思考も、私自身。
たぶん、人間なんてみんなみんな、エゴの塊で。
でも、エゴって 時に 願いだし 祈りだし 希望だし 夢だから。
エゴイスティックって聞くと、すごく自分勝手っていうマイナスイメージあるけれど。
エゴ=アイデンティティなんだなって、最近は思っています。
ああ、たまには怒るって大事だなって、思いました。
本当に、喜怒哀楽を私封印してきてしまっていたんだなぁと
いまだに驚くことばかりです(笑)
大体私、小さいころから喧嘩っ早くて、短気だったよそういえば・・・。
そうそう、親友の一言を思い出しました。
「悟りなんて、死ぬ間際に考えればいい!」って。
火×火の女、すげーなーと やっぱり思いますw
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