「愛するということ」 その続き

愛するということは

なんべんも

なんべんも

許すということ


 

 

そんな言葉が ずっと私のココロの中にあります

でも その 「愛する」「許す」というのも あいまいで 線引きがなくて

100人いれば 100通りのイメージがある

私の中では

「愛する」というのは 間違いを見逃すことではありません

 

「許す」ということも 罪を罪のままよしとするわけではありません

 

 

愛するということは

人は間違うものだと この世界に絶対万能のものなどないのだと

そういう前提の上で ヒトと関わり イノチと関わり 
その 万能じゃない部分も含めてうけいれるということであって

 

間違いを間違いと指摘しないことは 

愛の反対である無関心だと考えています

 

 

だから

 

私は 愛しい我が子に 間違っていることは間違っていると指摘するし
それを 意地になって認めなければ 認められるまで 何度でも話します 待ちます

でも 決して見過ごさない

 

でも 間違いを犯した我が子を 嫌うとか 愛することをやめるとか そういうことは一切ない

誰もが 何もかもが 万能でないこの世界だからこそ
多様性が生まれ 彩りの美しさがある

 

 

 

私が導くべき大切な存在が 間違いをすれば 

それは 

相手が凹もうが 泣こうが 指摘します 

 

 

そして 大切に注意深く見守る

ときには 失敗することも見据えたうえで それでも見守る

そして 絶対にしてはならないところにまで行ってしまいそうなときには

止めます
 

していい失敗と
してはならない 失敗があると思うのです

 

 

 

今日は選挙の投票日ですが

『国』というものに対しても 同じものが言えると思うのです

大切だからこそ 愛しているからこそ 盲信しない

誰もが 間違いを犯すもの

どんなものも 万能ではないのだと

理解した上で 注意深く観察する

 

いいところを認め 伸ばすことは とても素晴らしい育み方です

 

でも 

昔々の祖先の人たちが

ちいさな集団から集落を作り 村を作り クニを作り
その集団を育んでいったように

私たち一人一人も 「国」を育んでいる立場なのだとしたら

 

きっと ほめて伸ばすだけでは 育たないことが分かるはず

いいところを認めることも大事
でも
おかしいなと思うところは おかしいと指摘し 自浄を促す


 

 

規模が違うだけで

結果としては 「ヒト」をそだてることも 「国」を育てることも
根底は同じだと 私は思います

 

 

 

愛するからこそ 盲信しない

 

でも 

 

間違うものだということを受け入れ 自浄を促し許す

 

 

 

私の 世界観の話です(^^)

 

 

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