「子どもは厄介者」ということを自明の前提としている今の日本。

ずいぶん前に、ある方からご紹介いただいたこちらの本を、

今少しずつ読み進めています。

 

 

 

 

ああ、そうだよなぁ、そっかぁ・・・と強く感じたところがありました。

 

伝えておきたいなと思ったので、一部、転載します。

 

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(『身体の言い分』 内田樹 池上六朗著より、抜粋)

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 親の快感と子どもの快感は分離可能であり、分離されるべきだという考え方をしているところから児童虐待のような問題は起きていると思うんです。 

 

 でも、今の日本の少子化問題に対する行政やメディアで識者が語る意見を見ていても、

基本的に子どもというのは「邪魔なものである」ということを前提にしていますでしょう。この邪魔なものがもたらす害悪をいかに最小化するかというふうに行政は問題を立てているし、女性の社会進出への制度的な支援も、「子どもは厄介者」ということを自明の前提としていますよね。 

 

 たしかに、託児所をつくるとか、保育を行政が支援するとか地域社会で子育てを支援するのは、それ自体はいいことには違いないんだけれど、その前提には、子どもというのは要するに親にとっては自己実現の妨害者であるという社会的了解があるわけですよね。親が自己実現とか社会的なアチーブメントという枠組みで目指している快感と、子どもが求めている生理的な快感を「対立」というか「ゼロサム」関係としてみるような思考が支配的である間は、児童虐待はなくならないと思うんです。

 

 子どもが気持ちいいと親も気持ちがいいという、ごくごく当たり前のことお、子どもの生理的、身体的な快感を増進させてあげると、親もハッピーになるということを、アナウンスする人は本当に少ないんです。

 

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最近、SNSを中心とした起業をしたママ起業、主婦起業も増えています。

もちろん、それよりずっとずっと以前から、女性の社会進出について

法整備も制度もどんどん進んでいます。

 

それ自体は、やっぱりいいことなんだと思います。

 

選択肢が増えることは きっといいことですよね。

 

 

でもね、

FBやブログを中心として 赤ちゃんや小さいお子さんがいるときから、起業して

輝いている女性がたくさん見られるようになって

 

「私も、ああいう風にしたら幸せになれるんじゃないか」

「子どもがいても、自分はもっと自己実現ができるんじゃないか」

「ママの幸せは、子どもの幸せなんだから、まずママが幸せにならなきゃ」

 

そんな風潮は確かにあって。

 

私自身も、そう感じること、すごくありました。

そういう前提で、動いてきた自分がいます。間違いなく。

 

 

 

でも、ふとよく思い出してみたら、

本当にここに書かれている通りで。

 

 

ぬれたおむつを替えてあげて、我が子がすっきりしたら、なんか自分もスッキリした気がして。

 

離乳食を子どもが あーんぱくってしたときに、

自分は食べてもいないのに、一緒になって口あけてぱくっとしてもぐもぐして。

 

ベビーバスに入ってるのは我が子だけのはずなのに

なんだかじぶんまであったまってる気がして。

 

 

「子どもと一つだったとき」って、ほんとに、あったと思うんです。

 

 

子どもが笑ってくれたら、自分も笑顔になれて。

子どもがおいしいって言ってくれたら、それだけで心があったまって。

 

もちろん、やりたいことがあって、夢があるなら、母だからと言って

我慢することなんて別にないし、

親の犠牲の上に成り立つ子どもの幸せなんて、もろく崩れ去るものだから

親である前に個人が幸せでいることは とても大切なこと。

 

 

でも

「子どもの幸せ=親の幸せ」

であることを、体感として感じていた時期って、きっと母なら誰しもが持ってる。

 

それを 大切にするとか、優先するということではなくて。

 

たぶん、ただただ、その心地よさを 感じてみればいいだけなんだと思います。

 

 

 

私はここのくだりを読んでから、

子どもがいる時間のPC作業はかなり減らしました。

 

数日前は久々にお人形さんごっこをしました。

 

 

こういう気付きの機会をいただけたこと、感謝です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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